日本武尊の武勇伝の背景とは?・・・その2
この熊襲が住んでいた地域は『古事記』によると、筑紫国(筑前、筑後ー福岡県).豊国(豊前11福岡・大分県、豊後11大分県)・肥国(肥前11佐賀.長崎県、肥後11熊本県)を除く九州一帯とあり、日向(宮崎県)・大隅(鹿児島県)・薩摩(鹿児島)の三国が該当するとされています。
また、豊後・肥前・肥後国の『風土記』には、熊襲は「球磨噌(贈)励」と表記されており、この名称表記からは肥後国の球磨郡一帯と大隅国の贈励郡一帯の二つを合わせたあたりが熊襲の本拠地だったのではないかとも推測できます。
熊襲の語源は、クマが「暗く陰になっているところ」、ソが「山の背に通ずるところ」を意味するという説があるので、九州山地と霧島山系のそれぞれ南麓に位置する球磨と贈励は、まさしくそれに当てはまるというわけです。
球磨地方には球磨川が流れ、舟運など交通の便にも恵まれていたから、熊襲たちが勢力を伸ばしていく過程には、少なからずこの球磨川の舟運も利用されていたことでしょう。